MIKAMI'S REPORT 004

FLY WITH MOTORCYCLE

第4話

MIKAMI’S REPORT 004-4

MIKAMI’S REPORT 004

FLY WITH MOTORCYCLE

第4話


そして朝に

目が覚めると、すっかり朝になっていた。リミットのタイムを過ぎていることはもう、明白だった。
「今、ハナワさんから電話があって、レースマイル404のBAJAPITにいるらしいってわかったんで向かいます」とイマイが言った。

ハナワさんは、アメリカに住むホンダの社員で、BAJA1000のトップチームJCR(ジョニー・キャンベル・レーシング)のメカニックでもあるBAJAのベテランの1人だ。僕らのチームは、ハナワさんに大きくお世話になっていた。杉山が、イマイの携帯が繋がらないのでハナワさんに電話をかけたのだそうだ。

やれやれ。またサンフェリーペに戻るのか。そう思いながら、朝日の道を南へと向かう。昨日、最初はメシを食いに行くために走り、次は杉山の救出に向かうために走った道だ。

もう、ゴールまでの制限時間に間に合わないことは明白だった。だけど、そのことは、みんな誰も言い出さなかった。僕は、このままやめてほしくなかった。最後まで続けて欲しかった。

BAJA1000でのサポートという立場は、僕にとって初めての経験だった。常にレースに出る側だったからだ。なので、サポートにとっても、リタイアがこんなにイヤなものだなんて、まるで知らなかった。

BAJA1000常勝チーム、ジョニーキャンベルチームの0X、コルトン・ユーダルがスタート直後のエンセナダ郊外を走る。今年から生まれたゼッケン0X(ゼロエックス)は、昨年BAJAでの事故から急逝したデザート&フリースタイルライダー、ジェフ・カンゴラのニックネーム、オックス(OX)を偲んでの特別ゼッケン。コルトンは友の思いを乗せて走っていく。

1992年、エンセナダからラパスに向かうBAJA1000に、僕は初参戦していた。一緒に組むはずの西田が直前にケガしてしまったため、僕はソロでの参戦となっていた。92年、25周年記念大会だった1992 BAJA1000の総走行距離は1780km。

途中、マシントラブルと転倒を繰り返した僕は、1300kmくらいの地点で走りながらもリタイアを決意していた。スタートしてすでに30時間以上。2回目の夜を迎えようとしていた。マシンはボロボロだったし、このまま走っても、きっとコース内で走れなくなってしまう。そんな事態になって、みんなに迷惑をかけるなら、次にサポートと会うポイントでリタイアしようと決意していた。

ところが、サポートポイントで落ち合ったみんながこう言ったのだ。
次のMAG7で、戸井十月さんが待ってるって言ってたよ。ミカミ君のこと待ってるから、絶対来いって言ってたから、いかないと失礼だよ」と。

戸井十月さんとは、この年もBAJA1000に参戦していた(残念ながらプレラン中に骨折して出場はならなかったが)BAJAのベテランである、小説家の戸井十月さんのことだ。

戸井さんが待ってくれてると聞き、僕は気をとりなおして、クルマに踏まれて壊れたヘルメットをガムテープで直し、ボロボロのバイクをタイラップとガムテープ、針金で応急処置して、再びゴールへと走りだした。

でも、どこまで走っても、いくつピットを通りすぎても、戸井さんの姿なんてなかった。

サポートのスタッフが僕に嘘をついてたんだってわかったのは、僕が1000マイルを走りきって、フィニッシャーバッジをもらったあとのことだった。

リタイア

話は2011年に戻る。

朝日が上がり、白っちゃけた砂漠の中のBAJAPIT。ゴミ捨て場に面したそのピットに、266XのCRF450Xはいた。ようやく見つけた。バイクに異常はないようだ。しかし、杉山の姿がない。1kmほど先の交差点で僕らのことを待ってるとピットのスタッフに聞いて、ノダが迎えに行った。しばらくして、杉山がやってきた。

「チェーンガイドが壊れて」「体力的に限界で」「クルマが来て走れなかった」どれも、事実だった。だが、夜通し、レースを続けようと思って力を振り絞っていた僕らが欲しかった言葉は、今は言い訳じゃなかった。

 「ごめん、遅れた」

それだけでよかったんだ。僕らの気持ちと、杉山の気持ちがすれ違っていた。タケさんが、杉山さんになにか怒鳴っているのが聞こえた。タケさんは一喝したあと、クルマに戻ってしまった。僕はその場にいづらくて、カメラをもって離れたところに歩いていった。
それまで、クルマのなかで寝入っていたシオノが起きて、クルマから降りてきた。

「リタイアだよ」

俺が彼女にそう言うと、彼女は両手で顔を覆って、砂の地面に座り込んだ。


エピローグ

じつは、僕とイマイ、そしてノダは、なんとかレースを続けさせようと思っていた。この3人は、BAJA1000の完走経験者だ。最後まで走ることの意味というのを、体で知っていた。だから、たとえリミットを過ぎても走って欲しいと思っていた。

気まずい雰囲気の漂う僕らの横のBAJAPITでは、折れたフレームを溶接してもらっているATVのライダーがいた。設備も、整備方法も日本的な基準で見ればメチャクチャだ。一度、溶接の火花が樹脂パーツに飛んだのか、マシンが燃えそうになっていた。まるで漫画だ。埃まみれになっているライダーのところに行って僕は聞いた。

「BAJA1000にはよく出てるの?」
「いや、初めてなんだ」
「どう? きつかった?」
「信じられないくらいきついね。でも最高に面白いよ」
「エンセナダに行くの?」
「うん。トライしてみる」

そう言って、彼はにっこり笑ってリンゴをかじった。ウイスコンシンから来たのだそうだ。しばらくして、彼はゴミ捨て場の先へと走り去っていった。1万個のフープスが待つ、パワーラインロードへと。きっと、彼もリミットには間に合わないだろう。でも、走り去っていく姿は格好よかった。神々しいと言ってもいいくらいだった。

クルマの横に戻って、みんなで朝飯を食った。タケさんのいいところは、なにかトラブルがあっても、すぐにまた笑顔に戻るところだ。僕はそんなタケさんのことがすごく素敵だと思う。

一緒にメシ喰いながら「4輪のゴールまでは、ゴールは開いているから、どうですか」と恐る恐る聞いてみた。でも、タケさんは「無駄なことはしたくないんだ。チェーンガイドも心配だし」と言って、首を横に降った。

「パーツはプレラン車からとれますよ」と食い下がってみた。でも、一度タケさんが下した決定を覆すことは誰にもできなかった。

きっと、タケさんのなかで、この時、もうすでに次のBAJA1000が始まっていたのだ。

でも、タケさんが走るって言わなかったから、リタリアになったわけじゃない。杉山かシオノ、どちらかが「走る!」と言い出してもよかったのだ。走り続けることに意味があろうがなかろうが、僕は続けて欲しかった。だけど、俺は今回、ライダーじゃない。決めるのは、ライダーなんだ。

どうだ。これがBAJA、BAJA1000だ。どうだろう? 出たいと思うかい? 俺は、思って欲しいと思う。こんなキツくて最高で、でも最低で、だけどやっぱりこんな素晴らしい経験、誰でも、どこでもできるもんじゃない。

俺は、今もそう思ってる。

(おわり)

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