THE INTERVIEW 003
砂漠の鉄人 菅原義正
《後編》

THE INTERVIEW 003
砂漠の鉄人(後編)

THE INTERVIEW 003
砂漠の鉄人(後編)

THE INTERVIEW 003
砂漠の鉄人 菅原義正
《後編》

パリダカへ

パリダカで菅原が撮影した写真のフィルムは、菅原の帰国よりも早く日本に到着し、現像され、ホンダXL125R PARIS DAKARのカタログに使用された。砂漠をバックに止められた菅原のXL400R改と、チームメンバーの走り写真だ。この写真を見たことのある人は多いはず。世界の荒野を、砂漠を夢見るライダーたちを生み出した写真の1つだ。

当時のカタログ。左上の写真が、菅原氏自身がレース中撮影したものだ。

よく見ると、菅原のXLのタイヤはトレールタイヤだ。こんなタイヤでパリダカを走ったのか。

「どっちを取るか、という時代だった。モトクロスタイヤのほうが当然グリップはいいんだけども、耐久性が低い。備品を多く持ち運べないプライベーターは舗装路や硬い路面でも対応しているトレールタイヤを選ぶしかなかったんだよね。

でも、積んだ荷物やガソリン(37リットル)が重すぎて、すぐにパンクしちゃうんだよね。非常に苦労した」

「当時、俳優の夏木陽介さん(俳優だがパリダカなど多くのモータースポーツで活躍した)が三菱・パジェロのキャラクターを務めることになって、パジェロでパリダカに出ることになったんですよ。だけどファクトリーで走らせるわけにはいかなくて、僕のところに話が来たわけです。三菱の対応はすごく良くて、シチズンのスポンサーも得てうまく行ったんですが、夏木さんはそのあと当時のトップドライバーの篠塚健次郎さん(パリダカで日本人として初めて優勝したラリードライバー)とチームを作っちゃってチームから去ってしまったんです。で、またひとりで出ることになった。オートバイで2年やって、そのあとパジェロで8年やったんです。パリダカに出はじめた頃、10年はやらないとダメだと思っていたんです。言葉の問題もあるし、きちんと理解するには10年くらい必要だろうと。

その9年目くらいの頃、日野自動車から話が来たんです。会社創立の50周年記念にパリダカに出たいと。

でも、ドライバーもナビゲーターもいない。クルマは作れるけれどもノウハウがない。それでやってくれ、ということでやることになったんです。

それで、パリダカ10年目にしてトラック(カミオン)に乗ることになったんです。当初は一度乗ってそれでやめるつもりだったんです。オートバイ、クルマ、トラックと3種類やったことのある人なんてほかにいないしね」

パジェロを経て日野レンジャーへ

こうして、日野のトラックでパリダカに出ることになった菅原は、その性能の低さに愕然とする。

「パジェロだったら加速して上れるような坂で減速してしまう。これじゃダメだと思って、いろんなチューニングを施していくうちに20年経っちゃった、って感じなんですよ」

こうして20年間連続完走、26年間パリダカ連続参戦というギネス記録を樹立することになる。そして、日野とパリダカから離れる決断を2019年に決定。ダカールには次男の照仁がチームスガワラの代表となって参戦することになった。

画像提供 日野自動車(株) 

「老害になりたくなかったんだよね。長くやっている間に日野の役員も年下になって来たりしていたし。そして、パリダカ自体ペルー1国開催(2019年)になったことで違うと感じたこともあった。やっぱり、多くの国境を渡って走るのがクロスカントリーラリーな訳で、一国開催になっちゃうとそれはもはやエンデューロでしかない。そう感じてやめることにしたわけです」

「同じ頃に、篠塚健次郎がアフリカエコレースというラリーに出たことを記事で見たんです。資金をクラウドファンディングで集めて出場したと。で、記事で面白かったと書いてあるので電話したら、まんまパリダカだと。F1、そしてパリダカのレーサー、ジャン・シュレッサーと、パリ・モスクワ・ペキンラリーを開催したルネ・メッジがやっているラリーだと。ともにティエリー・サビーヌ(パリダカの創始者・1986年に事故で死去)を尊敬している2人なので、確かに面白そうだと思って興味が湧いたんですね。

ダカールラリーが南米に舞台を移した時に、フランス、アフリカでのラリーはもう終わりだと思っていたんです。南米での準備に集中していたこともあって、全然情報を持っていなかったんだけども、じつはダカールが南米に舞台を移した2009年から開催されていたと知って驚いたんですね。

すぐにシュレッサーのところに飛んで行って、話を聞かせてくれと。

シュレッサーは大会の知名度を高めるためにも日野自動車で参戦するようにしてくれって頼んで来たんだけども、日野はなかなか組織が大きくなってしまって動きにくい。今は息子が代表をやっているしね。なので。将来的には、という約束をして、別の車で出ることにしたんです。同時に日本事務局の役割も日本レーシングマネージメントで請け負うことになったんです」

アフリカエコレース

そして2020年。モナコをスタートするアフリカエコレースにヤマハ・YXZ1000Rで参戦することになった。ナビゲーターは羽村勝美だ。初参戦となった、アフリカエコレースはどうだったのだろうか。

AER(アフリカエコレース)のスタートシーン。モナコ公国からのアフリカに向けて2週間の旅だ。

「すっごい良かった。まず車検に行くんだけど、モナコなんだよね。アフリカエコレースのスタート地であるモナコ公国の大公、アルベール2世は王子だった頃にパリダカにパジェロで参戦し、完走しているレーサーでもある。あのグレース妃の息子さんだよね。

そうした背景もあってアフリカエコレースについてはとても協力的で、スタートフラッグを振ったりしてたんだ」

アフリカエコレースは、2021年10月にアルジェリア一国で開催するアルジェリアエコレースを開催する予定だったが、これはコロナウイルスの影響で延期されてしまった。また、通常正月に開催されていたアフリカ・エコレースも3月にスタートがずらされた。

「昔もラリーモンテカルロとパリダカの日程が重なっていて、一部の選手が両方に出られない、という問題が発生して、モンテカルロの開催がずらされたことがあったんですよ。今のダカールラリーとアフリカエコレースも同じ問題があって、ダカールのトップ選手はアフリカエコレースには参戦できない。そこで、アフリカエコレースの日程をずらすことにしたんです。これはコロナウイルスの感染拡大とは関係のない話ですね。

来年開催されるこのラリーには、ヤマハ・YXZ1000Rで参戦します。ターボをつけてね。このクラスはカンナムが速いんだけど、僕のマシンはステファン・ペテランセル(パリダカの伝説的レーサー)が造ってくれているんで完璧です。足が長くて、安定していて、乗り心地もよくて非常にいいマシンに仕上がっています。

このクラスのバギー(SSV)をアフリカエコレースのレギュレーションに適合させるのは結構難しくて、費用もかさみますがペテランセルさんのところでトレッドを広げてもらったりして安定性の高いマシンに仕上がりました」

生涯ラリー好き

今年80歳になった菅原だが、話し振りや態度に尊大なところは一切見られない。終始穏やかな笑顔で、話を聞くこちらに対し「そんなことも知らないのか」ということもなく、丁寧にゆっくりと話してくれる。

話を聞いている間、常に感じていたのは、この人は仕事として金のためだけにラリーやレースを追いかけて来た人ではない、ということだ。

AER2020は過酷なレース。菅原は唯一の日本人完走者となった。

ときにプロフェッショナルレースの世界は、好きかどうかよりも上手いかどうか、向いているかどうかが重視される傾向がある。勝つことが目標なのだから、それは当然のことだ。でも、その結果、速いし勝つけれども、決してクルマ、バイク、トラック、そして砂漠を好きではない、という人も現れているように思う。

そんな時代を走り抜けて来た菅原からは、大荷物とスペアタイヤをバイクに縛り付けてサハラ砂漠を走って来た「バイク好き」ならではの優しさが感じられるのだ。

パリダカの創始者、ティエリー・サビーネの有名すぎる言葉がある。

「冒険の扉を用意しよう。開けるのは君だ」

冒険の扉を40年前に開けた菅原は、今も冒険の真っ只中にいる。こんな素晴らしい人生を送ることができたら、きっと幸せにちがいない。だからこそ、触れ合う人まで幸せにしてしまうのだろう。

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