THE INTERVIEW 002

海のインディジョーンズ 石垣幸二

( 前編 )

THE INTERVIEW 002
海のインディジョーンズ 石垣幸二(前編)

THE INTERVIEW 002
海のインディジョーンズ 石垣幸二【前編】

THE INTERVIEW 002

海のインディジョーンズ 石垣幸二

( 前編 )

国内外の水族館のために海洋生物を調達し、それらを死なせることなく生きたまま送り届ける「サプライヤー」。専門的すぎるがゆえに世界に数社しかないその事業を展開し、“海の手配師”とも呼ばれているのが石垣幸二氏です。希少な海洋生物を追い求め、世界中の海をまるで冒険を重ねるかのごとく旅してきた、その半生について語っていただきました。

海のインディジョーンズ

インドネシアの海上。ジャワ島を遠く離れ、無人島群のあいだを縫い、カカリオス・セアレイという、いまだ日本の水族館にて展示されたことのないメジロザメの一種を捕獲しに来たのだが、想定外のトラブルに遭ってしまった。現地で手配したクルーたちが、みなイスラム教徒なのだが、ラマダン(断食)明けの空腹に耐えかねて、用意していたサメのエサのチュミチュミ(イカ)を全部食べてしまったのだ(しかも、それを報告せずに黙っている)。この捕獲隊結成のために、経営が苦しいなか、なけなしの数十万円をかけた。その要のエサがいま船員たちの胃袋へと消えた。襲い来る虚無感、苛立ち……。こいつら全員、海に叩き落してやろうか? 肚に力を籠めて、絞り出すように声を発した。

「エナ スカリ?(うまかったか?)」

きょとんとした表情。つかの間、ひとりのクルーが照れ笑いしながら、「オー、バグース!(とっても!)」と答えた。すると、続くように「うまかった!」「最高だった!」「腹が減ってたんだ!」とみなが言う。

「怒っちゃダメなんですよね。そもそも怒っても謝らないし。そんなに怒られる経験をしたことがないから。だいたい面倒くさくなって聞く耳を持ってもらえなくなる。だから、逆に盛り上げる。うまかったか? うまかったよな! なんだよ、オレの分も残しておけよ、バカヤロー!ってね(笑)」

こうしたからといってサメが釣れるわけではない。そもそもエサがないから釣りはできない。すると、盛り上がったクルーのひとりが「違う島に行って小魚をとり、それをエサにしよう!」と提案してきた。その通りにしてみる。が、釣れない。当然だ。エサはイカが一番釣れるからと彼ら自身が用意したものだったのに、それを食べてしまったのだ。それでも、一度は彼らの言う通りにやらせてあげないといけない、と石垣氏は言う。一見、無駄な行為を重ねているようだが……

「そういうもんなんだよ。こういう話をすると、騙されてるんじゃない?ってよく言われるけど、そういうもんなんだよ、本当に。それを知ったうえでやり続けると、これまでになかった成功例がひとつかふたつ出てくる」

この遠征では目当てのサメを捕獲することはできなかった。しかし、このクルーらの信頼を獲得した石垣氏は、帰国後、自主的に出船した彼らよりサメ捕獲の報せを受け取る。

海の手配師・石垣幸二、その素顔は百戦錬磨のトレジャーハンターそのものであった。

トレジャーハンターの原風景

石垣氏の本業であるサプライヤーとは世界に6社しかない水族館をメインに海洋生物を納入する業者のことだ。ペットショップなどを主とする業者との違いは、取り扱う生き物の捕獲から輸送までの難易度が高いこと。また水族館ではショップのように売れたから補充するということがないため定期的な仕事が少ない。

彼が営むブルーコーナーも、いまでこそ世界的に認知されているが、ここまでの道のりは決して平坦なものではなかった。 

いまでは世界中に石垣氏を信頼してくれる現地サプライヤーがいて、彼らしか取り扱っていない希少種も、彼だからこそ託している。

創業当初は、副業で始めた海洋生物の携帯ストラップをつくる仕事で糊口をしのぎ、そちらで現金が手に入ったときに本業のサプライヤーの仕事に出かけられるという状況だった。

「ダイビングショップなどに卸していた携帯ストラップの代金を回収して、そのお金でひとり分のフィリピンとかインドネシアへの航空チケットを買い、現地で単身、生き物を探したり潜ったりして獲っていましたね」

生き物を探すルートは大きく分けるとふたつ。観賞魚ルートと食用ルート。前者は、現地で一般に売りに出されているもの。安定しているが、誰もが知っているところばかりなので、大きな発見はあまり期待できない。後者は、例えば現地の魚市場。珍しい生き物を見つけたときには、それを獲った漁師を紹介してもらい、どこで獲ったか詳しく聞いて、現地に捕獲しに行く。さらには、地元の中国料理店も穴場だという。

「地元で20年とかやってる店ほど現地の魚などに詳しいところってないんですよ。その場所で獲れる魚を知り尽くしているから、彼らが見たことがないような珍しい魚を見つけたときには、それを食材として出さずに、店の奥でオーナーがペットとして飼ってたりする。オレが狙ってるのはそういうサカナだよね」

我らがインディにそのやり方を伝授してもらった。まず、ご飯を食べに来た体で店に入る。しかし、その脇にはパッキング道具を抱えている。店内にある水槽をチェックして、もし見たことがないような生き物がいたら、その場で交渉開始。話がまとまると、たいてい店の人がその生き物を調理しようとするので、「違う、食いたいわけじゃない!」と言って自分で酸素パッキングして持ち帰るのだ。日本で初めて展示されたスノークラブも、実はこのようにしてオーストラリアの中国料理店から輸送された。

このような発見、まだ誰も運んだことのないような生き物を見つけ出すこと。彼をドキドキワクワクさせ、希少種が生息する奥地へと突き動かすのは、この宝探しの感覚だ。

宝探しの原体験は、少年期を過ごした伊豆下田だった。こどもたちにとっての遊び場は地元の磯。眼前の海には海藻であるカジメの海中林がたなびく。当時10歳だった石垣少年は、3歳年上の兄たちのように、そのカジメの林のなかを自由に探索したかったのだが、まだ海へと飛び込む勇気がなかった。それは、人生最初の冒険だったと言ってもいいかもしれない。ある日、意を決して磯から飛び立つと、焦がれた海中へとその身を投じた。

茎部の長さがときに1メートルを超えるカジメ。その群落は文字通り海のなかに林をつくり、多様な生き物の産卵、生育の場となっている。

目の前にはあのカジメ林。喜び勇んでそのなかへと入っていく。そのさまはまるで原生林。ただし、ここは海中だ。夢中になってカジメ林のなかを泳ぐ石垣少年にとって、そこは地上には存在しない未知なる世界と同じだった。

この原体験は石垣氏の心の深い部分に刻まれた。その後の人生において、石垣氏が何かの壁につきあたる度に、夢のなかにはあのカジメ林が現れ、彼が真に欲しているものをカジメ林の中に見せてくれるのだ。

「小さいころには、当時、流行っていたスーパーカー消しゴムがアワビとかが張り付いている岩の割れ目にくっついててさ、それをノミではがしてゲットするんだよ。あるはずないんだけど、夢だから(笑)。欲しかったけど、家にお金がなくて、買えなかったんですよね」

夢の結末はいつも石垣氏がたからもの(ほしいもの)を見つけるかたちで終わっていた。

ブルーコーナーを立ち上げた際にも夢に出てきたこのカジメ林。ところが、このときはいくらかき分けても欲しているものが見つからなかった。綱渡りの経営状況。お金がないことによって本当にしたいことができない日々。いつしか本当にしたいのかもわからなくなってきた……。自分が目指すべき方向が見えなくなっていたのだ。

やっとみつけた“たからもの”

そんな長いトンネルを抜け出せずにいた彼の道標となった言葉がある。2000年にモナコにて開催された世界水族館会議。そこにサプライヤー界の権威であるフォレスト・ヤング氏が登壇し、自身しか捕獲、供給できないボンネットヘッドシャークについての発表を行った。その内容は、輸送での失敗の数々やこれまでに納入した水族館にて生育が難航し、すべての個体が1年以内に死亡しているというショッキングなものだった。ボンネットヘッドシャークの値段は輸送代金込みで1尾およそ100万円。にもかかわらずこのような発表をしてしまっては、もうどこの水族館も買おうとは思わないだろう。サプライヤーとしてなんて愚かな発表をしたのだ、と石垣氏は思った。でも、なぜ? いてもたってもいられず、大勢の人に囲まれる彼に直接聞いてみた。すると帰ってきた言葉は、ひと言、

「君はいつまでこの仕事を続けるつもりなんだ?」

消え入りたくなるほど自分を恥じた。サラリーマン時代を経てようやく見つけたと思った一生の仕事、海の仕事。なのに、自分は、お金がない状況を理由にして、ただ右から左へと魚を流していただけだったのではないか。世界の海を旅し、希少種を探してきた自分が見つけられていなかった“たからもの”、

それは「仲間の信頼」であった。

魚を届けるだけではない。送り届けた環境で、生き続けてもらう。生きて水族館の来場者に感動を与え続ける。そのためには、すべての情報を水族館と共有し、ともに歩んでゆく必要がある。フォレストの短い言葉は、深く、そして的確に石垣氏へと刺さった。

この短い邂逅を経てブルーコーナーは新たな船出に出る。その帆に書かれた言葉は、「世界一のサプライヤーになる」。世界一 “人に信頼される” サプライヤーになることを高々と掲げたのだった。

新しい船出は順風満帆ではなかった。しかし、確固たる信念のもと、少しずつではあるができることは増えていった。

そんなおり、アメリカより希少なリーフィーシードラゴンを仕入れたいというオファーが届く。1尾40万円する個体を4尾も。当時の石垣氏にとっては大きすぎる取引。しかも、フォレストの言葉を聞いて以降、ブルーコーナーは送り届けた魚が24時間以内に死亡した場合、全額を補償していた。もしこの輸送が失敗すれば、会社は大きな損失を被る。もうひとつ懸念があり、取引相手は動物園内の水族館だった。水族専門ではないスタッフからの依頼だったのだ。

それでも、自分たちの持てるすべてをもってシードラゴンを手配し、飼育方法を説明し、送り届けた。

リーフィーシードラゴン Leafy sea dragon

結果、24時間が経過しても向こうから連絡はなかった。

よかった。
しかし、無事という連絡も来なかった。
何かもやもやした気持ちを持ったまま3日が過ぎた。

依然、返事はない。

1週間が過ぎて、そろそろ請求書のやり取りをしようとこちらから連絡をしたところ、返信はすぐに帰ってきた。

メールを開くと、その冒頭に「オール・デッド(すべて死んだ)」とあった。

その飼育員から「自分はもうこの職場にはいられない」という旨の言葉も書き添えられていた。

補償の期間は過ぎている。ブルーコーナーにその責はない。しかし、自分は慣れない飼育員のために最大限のことをしてあげられたのか。もっとできたことがあったのではないか。世界一を標榜するがゆえに自身の行いに厳しい目を向けざるを得なかった。

そして、夜中の3時過ぎまで悩み、石垣氏は全額を補償する旨の返信を送る。

それは、ブルーコーナーとして航海することの終焉を意味した。

ビジネスとして続けるのは、もはや限界だった。


ところが、しばらくして、突如海外の水族館からリーフィーシードラゴンを仕入れたいというオファーが立て続けにやってきた。なんと合計で40尾以上。しかも、これまでに取引をしたことがないような大きなアクアリウムばかりから。
わけがわからず、オファーをくれた担当者にどこで自分たちのことを知ったのか尋ねたところ、アメリカの動物園水族館協会の会員誌に掲載されていた記事を見たという。それは、あの退職したアメリカの飼育員が投稿したリーフィーシードラゴンのエピソードだった。

自分は補償期間を過ぎて魚を死なせてしまったが、それを全額補償してくれた。

確固たる信念をもった素晴らしいサプライヤーが日本にはいる。

それが、ブルーコーナーだ


仄暗く、終わりがないように見えたカジメ林。

石垣氏が、ようやく光り輝くたからものを手にした瞬間だった。

後編へ続く)

にしむら 西村

INTERVEIW