THE INTERVIEW 006

アウトドアギアを哲学する男 久冨保史【前編】

THE INTERVIEW 006
アウトドアギアを哲学する男 久冨保史【前編】

THE INTERVIEW 006
アウトドアギアを哲学する男 久冨保史【前編】

THE INTERVIEW 006

アウトドアギアを哲学する男 久冨保史【前編】

日本で最も信頼できる登山ギアレビューサイトと言われる「アウトドアギアジン」。そこに登場するギアは、公平性を保つために、すべて自費で購入されており、なおかつ野外で徹底的に使い込まれている。いまどき珍しい忖度のないメディアとして幅広いアウトドア愛好家から絶大な信頼を獲得しているのだ。ただ、そのサイトが自分の人生の目的を探しつづけた、たったひとりの男によってつくられたことはあまり知られていない。誠実なるレビューサイトが誕生するまでの物語を、アウトドアギアジン編集長・久冨保史氏にうかがった。

POINT OF VEIW

歩きつづける、ただそれだけで心地いい。

日本で7年勤めた会社を退社し、縁あってアメリカにやってきた。気づけば会社勤めを始めてから10年の月日が経っていた。久冨氏はいまだ自分が生涯をかけてやるべきことをもとめていた。

アメリカにある国立公園を歩こうと思った。このとき暮らしていたピッツバーグから近いシェナンドー国立公園をその最初の場所に選んだ。公園に到着すると、まるで里山のようなハイキングコース。大学生のときにワンダーフォーゲル部に在籍していた彼にとっては決して「困難」ではない山。ところが、それは物足りないどころか久冨氏の感激の扉を次々に開けひろげていく。人とアウトドアが出会うべく用意された場所。そこでは何をしても良く、人が自然のなかで自由にいられた。そして、誰をも歓迎してくれた。

そんな国立公園内を歩きつづけた。頭のなかはこの母国とはまったく違ったアウトドアの思想をどう処理したらよいのかでいっぱいだ。

やがてたどり着いたヴューポイント―――

シェナンドー国立公園から望むブルーリッジ・マウンテンズ。シェナンドー川とともに世界一有名なカントリーソングにその絶景を謳われている。

目の前に広がるブルーリッジ山脈。どこまでもつづく山々。ブルーリッジの名のとおり、そのスカイラインは、いままで見たどの空よりも青かった。

ふと、口からメロディが漏れ出た。

Country roads, take me home

To the place ――― 

I belong

自分があるべき場所。ずっと探しつづけている場所。その道筋が初めて示されたような気がした。


アウトドアとの出会い

アウトドアギアジン久冨保史は”いま”根っからのアウトドア好きである?

答えは、イエス。

では、そのアウトドア好きは幼いころからだった?

「と、もし問われたら、ずっと自然のなかで遊ぶことは好きだったけど、アウトドアや自然との向き合い方という意味では同じではなかった、と答えるのが正確だと思います」

いつも、正直に。開設以来7年、登山用ギアのレビューサイト、アウトドアギアジンの管理者として、自身の信条にもとづく嘘偽りのないレビューを配信しつづけている彼は、インタビューで発する言葉のひとつひとつにすら誠実であろうとしているようだった。

そのアウトドアとの出会いは、小学3年生のときの山村留学に端を発する。

「生まれたときからずっと東京で、父を早くに亡くしたので、アウトドアに触れたのはこのときが初めてでした」

1985年に始まった相馬ポニー牧場での牧場留学(現在牧場は閉業中)。久冨氏らはその第一期生だった。牧場には馬が20頭ほど、牛が2頭いて、それらの世話も子供たちが担当した。

母からの提案で、当時、福島県の南相馬市にあったポニー牧場に1年間留学することになった。このプログラムでは、小学3年生から中学3年生までの生徒が、牧場で馬の世話をしたり、集団生活をしながら、地元の学校に通った。ここに久冨家から兄、そして母が牧場での仕事を手伝うかたちで参加した。

「そこで、学校が終わったら、毎日のように外遊びをしていました。牧場の先には山があり、下には川があって、夕方からは乗馬が始まり、というような環境で“2年間”過ごしました」

そう、ここでの生活をえらく気に入った彼は、兄と母が東京に帰るなか、ただひとり残って、小学4年生のあいだもこの牧場で過ごしたのだった。

「牧場から学校まで5キロぐらいあったんですけど、ポニーに乗って登校したりしていました(笑)。本当にすごくいい経験だったと思います。このときの経験がなかったら、きっといまみたいに自然と触れ合おうという気持ちにはならなかったでしょうね。それまでまったくの都会暮らしでしたから」

ところが、この集団生活は思わぬ副産物をももたらす。2年ぶりに地元の小学校に復学した彼は、自分がいなかったあいだに築かれた新たな人間関係に馴染むことができず、「集団にどっぷり馴染む、ポジションをつくる」ことに苦手意識を覚えるようになる。

「弾かれるということはなかったんですけど、なかに入ってその中心でまわすということもなくて、自分がいないあいだにできていた関係に割って入っていくほど積極的ではなかったですね」

この意識は、その後、表面上は解消されていく。ただ、自分らしくあるためには―――、いまも久冨氏の根底にあるように感じられる。

そんなすばらしいアウトドアとの出会いを果たした久冨氏だったが、ここでその関わりはいったん途絶えてしまう。先述した人間関係の影響もあり、中学受験をして中高一貫の進学校に入学する。そこで打ち込んだのは、部活のハンドボールと、受験のための勉強だった。

「その6年のあいだは、正直、アウトドアとは完全に無縁でした」

ましてや将来アウトドアを仕事にしようとは微塵も思っていなかったと振り返る。


自由と自立

彼が再びアウトドアを始めるのは、厳しい受験戦争を乗り越え、国立の大学に入学したときだった。そこでワンダーフォーゲル部に入部する。その部は、ひと言で言うなら、「自由」だった。一般的な山岳系のサークルであれば、より困難なルートを制覇することに価値を見出すが、そこは部員のオリジナリティを最重要視した。

ワンゲル部の夏合宿で訪れた南アルプス。最終日に登ったのは、ルートから外れるがゆえに登る人がほとんどいない、小太郎山だった。そんな山だからこそ、登ってみたくなった。ここはいまでも久冨氏のなかで最も印象に残っている山のひとつである。

「夏は沢登り、冬は山スキー、いまで言うバックカントリースキーが主体だったんですけど、そのよりグレードの高いルートを攻略していこうというのではなくて、『道なき道を、自分だけのルートをつくって、目的地を目指そう』という文化だったんです。困難さに挑む競技志向ではなく、『旅の延長』だったと言ったらわかりやすいかもしれないですね」

メインは沢登りと山スキーだったが、ハイキングを主とする者もいた。リーダーを中心にプランを組み、部員がおのおの成し遂げたいことをしていく。やってはいけないことはなかった。想像力を働かせ、道をつなぎ、自分だけのルートを編み出し、それを現実に攻略していく。ここで彼は「自由」の魅力を知る。


大学ではもうひとつ人生の指標を得た。それが「自立心」。社会学部で哲学、倫理学を学ぶと、自分のこれまでの努力が、優等生という名のレールの上を進んでいただけだったことに衝撃を受ける。そして、本物を、世間一般ではなく、自分が正しいと思うことを追い求めながら生きていくことに憧れを抱く。どこまでも、誠実に。この二十歳とのときに学んだ倫理は、いまなおアウトドアギアジンの根幹を流れている。


大学で得たふたつの指針。ただこれらはすぐには答えにつながらない。大学卒業後は、アウトドア関連ではなく、まだ芽吹いたばかりのインターネットに可能性を求めて通信会社に就職する。

「結局、このときも、自然やアウトドアそのものを楽しんでいたのではなく、部で活動して、自分のスキルが高まっていくことに魅力を感じていたんだと思います。登山をしていたんですけど、自分なりに自然と向き合うということはしていませんでした」

仕事に関しては、アウトドアよりも、「自由」に魅力を感じた。当時まだ普及し始めたばかりだったインターネットサービスの可能性にその自由さをみつけ、将来自分が「自立」するときにつながるはずと広告系のウェブ制作会社に転職する。

「具体案があったわけではなく、ずっと何かがつながるのを待っていた、と言ったらいいのでしょうか」

社会に出てからも彼はずっと自分にしかできないことを探しつづけていた。

ところが、その答えは10年が過ぎても見つからなかった。


つなぐメロディ

転機となったのはアメリカだった。2011年にそれまで勤めていた会社を退職すると妻とともに渡米した。

「このときには会社を退職して起業しようと決めていたんですが、このときになってもまだ具体的に何をしようということは決まっていませんでした」

ずっと「自由」を感じてきたウェブサービスをいよいよ立ち上げようとは決めていた。この年は東日本大震災時に、国内のインフラが軒並み不能となるなか、新興SNSのTwitterが存在感を示した年でもあった。しかし、自分ならではの、自分にしかできない方向が見つからない……。世界的なウェブサービスが次々に生まれているアメリカでならば何か手掛かりが見つかるかもしれない。そう思っていた。

拠点となったのはペンシルベニア州ピッツバーグ。この地で日常を送りながら、自分に何ができるか模索した。このタイミングで再開したのが、大学卒業以降たまにしかいかなくなっていた、山だった。せっかくアメリカに来たのだから国内中の国立公園をまわってみようと思った。そのひとつめがペンシルベニアのお隣、ウェストバージニア州に位置する、冒頭のシェナンドー国立公園だった。

シェナンドー国立公園のトレイルコース中にある避難小屋。ここも誰もが無償で利用できる。こういう心遣いひとつひとつに感激した。建物の入り口に書かれたBYRD’S NEST(BIRD’S NESTの言葉遊び)は、のちに、この地を原点とする、久冨氏の会社の社名となる。

いったい久冨氏は何に感動したのか?

「もう初っ端からでした。私が歩いたのはハイキングコースでしたが、別に歩かなくてもこの国立公園は楽しめるように考え抜かれていました」

歩きたくない人は車で広大な公園内をドライブするだけでもいい。山ではなく川を楽しみたい人はラフティング体験もできた。公園内にあるビジターセンターを訪れれば、その人その人に合った自然との接し方を教えてくれる。誰をも歓迎していることが衝撃だった。

「大学で比較的自由な山岳系の部にいた私ですが、それでも山に入るための基本的な訓練はしました。これはどっちが良いという話ではなくて、日本での登山というと登りたい人がそのために必要な準備をすべて自分で行ってするものなのですが。

まずは、歓迎する。

そして、何をしてもいい。

大学時代に感激した「自由」が、理想のかたちのひとつとして、そこにあったんです。しかもそれがカルチャーとしてしっかり根付いている。自分の生涯はこのすばらしい文化を伝えることに使っていこう、気づいたときにはそう思うようになっていました」

日本で登山をしながら、自然と向き合うことのなかった青年は、だからこそのカルチャーショックを誰よりも正しく受けることができた。


冒頭で久冨氏が口ずさんだTake Me Home, Country Roadsはこの地で生まれたカントリーミュージックの金字塔だ。郷愁を誘うメロディと歌詞。だけど、このときの彼にとっては違う意味を持ったのかもしれない。

そのメロディが彼のなかでバラバラに散らばっていたピースたちをつなぎ始める。

アウトドアをやっていこうと決めると、今度はショップを訪れるようになる。

「ところが、アメリカってメジャーな都市以外ではREI※ぐらいしかアウトドア用品を買えるリアルな場所ってないんですよね。そのお店で見れないものに関しては当然雑誌やネットで情報を得るしかないのですが、私にとってはそれが衝撃的な出会いでした。そこには個々の道具について、細かくて多角的な評価だったり、批判的な意見だったりがびっしりと書き込まれていて。いまでは当たり前のようにあることですが、山もこういう視点で語っていいんだと、自分のなかで初めて気づかされたんです」

※全米に150以上の店舗を持つアメリカ最大手のアウトドア用品店。REI(レイ)はレクリエーショナル・イクイップメント・インコーポレイテッドの頭文字を取った愛称。

アメリカのアウトドアカルチャーに触れて受けた衝撃のふたつめがこちらだった。いまでこそネット上にはギアのレビューサイトが山ほどあるが、この時点で日本国内にはメディアのかたちをとったサイトはほぼなかったのではと彼は言う。

「僕もそうでしたけど、山のギアって見た目や大まかな違いくらいまでは気にするけど、それ以上の細かい部分を気にする必要性ってあまり感じていないと思うんですよね。どれがいいよりも、これとこれは持って行かないとダメ、そんなスタンスと言ったらいいでしょうか。

でも実際には山道具にも当然「作り手」がいて、その人がある意図をもってつくりあげたものであり、山道具とは実はこれまで気づいていなかった細部にまでその思いやこだわり、アイデアがぎっしりと詰まっているものなのだということに気づいたんです。音楽のアルバムがリリースされれば、当然そのレビューが生まれるように、山のギアについても語っていいんだと。語るだけの“奥深さ”があるんだと。そのことを教えてくれたのがOutdoorGearLabなどの向こうのサイトでした」

この奥深さというのは、ただ点数をつけるだけでなく、数多リリースされるギアのそれぞれの長所も短所もきっちり説明し、活躍する条件、開発者どのような思いを込めてつくったのかまで紹介し、その壮大なストーリーを伝えられるということ。国立公園につづき、その気づきに感動せずにいられなかった。

そして、点と点が“ようやく”つながる―――。

誠実に自分が人のためにできることを追い求めつづけた男によって、2014年秋、山のギアレビューサイト、アウトドアギアジンは世に送り出される。

後編へつづく)

にしむら 西村

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